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浦和地方裁判所 昭和57年(人)1号 判決 1982年5月14日

請求者

甲野花子

右代理人

井上豊治

被拘束者

甲野一郎

右代理人

金台和夫

拘束者

甲野太郎

右代理人

為成養之助

吉田聰

主文

被拘束者を釈放し、請求者に引渡す。

本件手続費用は拘束者の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求者

主文同旨

二  拘束者

1  請求者の請求を棄却する。

2  本件手続費用は請求者の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の理由

1  請求者と拘束者は、昭和五四年一一月一一日結婚した夫婦であり、被拘束者は、昭和五五年八月八日請求者と拘束者の間に出生した長男である。

2  拘束者は、結婚当初から請求者に対し、「お前は金目当てに来たんだろう。俺は歯医者だからな。」などと言葉汚くののしり、請求者の人格を著しく傷つけ、その後は暴力行為を繰り返すようになり、請求者は、いたたまれずに実家に逃げるなどしてその場をしのいできた。しかし、拘束者の性格は一向に改まらず、ますます激しくなるので、請求者は、昭和五六年九月に被拘束者を伴つて肩書住居地記載の実家に戻り、爾来拘束者と別居を続けている。

3  請求者は、拘束者との離婚の決意を固め、同年一一月五日浦和家庭裁判所に対し離婚の調停を申し立てた。調停期日は二回開かれたが、合意をみず、昭和五七年二月八日不成立となつた。拘束者は、離婚そのものについては合意しなかつたけれども、昭和五六年一〇月分から請求者及び被拘束者の生活費、養育費として一か月一〇万円宛支払うことを約した。

4  請求者は、右調停が不成立になつた後、離婚訴訟を提起すべく準備中であつたところ、拘束者は、昭和五七年三月七日請求者方に来て拘束者のもとに戻るよう申し向けたが、請求者は、裁判で解決したい旨告げて右申し出を拒絶した。ところが、拘束者は、同月一四日突然請求者方に現われ、請求者が不在であることを知るや、請求者の委託により、その両親に監護されていた被拘束者を奪い取り、そのまま今日まで同人を拘束している。請求者は、拘束者から同月一六日に被拘束者とともに自宅にいるので迎えに来るようにとの連絡があつたので、同日拘束者方に赴いたところ、拘束者は請求者に対し大声でわめき散らし、請求者が被拘束者だけは渡してほしいと懇願しているのにもかかわらず、靴下のまま被拘束者を抱きかかえて家から飛び出してしまつた。

5  拘束者は、請求者との間で前記のとおり養育費の支払を約束し、被拘束者の監護養育を請求者にまかせ、事実、被拘束者は請求者のもとで不自由なく過ごしていたのにもかかわらず、一方的に約束を破棄したものであり、正当な理由なく被拘束者を拘束している。

6  拘束者は、歯料医師という多忙な身であり、自ら被拘束者を養育することは到底できず、自己の勤務する歯科医院に被拘束者を連れて行き、そこに勤務する者が代わる代わる面倒をみている状況である。一方、請求者の実家は、定年退職した請求者の父と母が健在であり、請求者自身は昼間パートの勤務をしているけれども、被拘束者の養育に欠けるところは全くない。被拘束者のためには、請求者のもとで養育する方がすべての面で有益であることが明らかである。

7  請求者は、拘束者との離婚訴訟を提起すべく準備中であるが、被拘束者の拘束を解くには長期間を要することが予測されるので、救済の目的を達することができない。

よつて、請求者は、人身保護法二条、人身保護規則四条により被拘束者の即時釈放と請求者への引渡しを求める。

二  請求の理由に対する認否、反論

1  請求の理由1の事実を認める。

2  同2のうち、請求者が被拘束者を伴つて実家に戻り、現在まで拘束者と別居中であることは認める。但し、その時期は昭和五六年八月下旬である。その余の事実は否認する。

請求者が別居したのは、請求者の育児ノイローゼとわがままな性格が原因となつて、無断で被拘束者を伴つて実家に帰り、拘束者と別居するようになつたものである。

3  同3のうち、調停が不成立になつた事実は認める。なお、拘束者は、請求者及び被拘束者に対する生活費として昭和五六年一〇月分から一か月一〇万円の割合で合計五〇万円を送金している。

4  同4のうち、拘束者が昭和五七年三月七日請求者方へ赴いて拘束者のもとに戻るよう説得したが請求者が応じなかつたこと、同月一四日請求者不在のときに拘束者が請求者方に行き被拘束者を連れて帰つたこと、同月一六日拘束者方で請求者と会つたことは認める。

拘束者が、同月一四日に再び請求者方を訪ねたのは、同月七日の訪問だけでは断念し切れず、請求者が被拘束者とともに拘束者のもとに戻るよう請求者とその両親を説得するために行つたのであるが、請求者は不在で、その父○○○○は拘束者との話し合いに応じようとしなかつた。ところが、被拘束者が拘束者の声を聞きつけて奥から飛び出してきて、○○○○の制止を聞かずに拘束者にすがりついて離れなかつたので、拘束者は不憫でたまらず、請求者を抱いて連れ帰つたのである。また、同月一六日は、拘束者はあらかじめ、請求者と二人だけで話し合いたいから必ず一人で来るようにと念を押しておいたのに、請求者は姉及び請求者代理人の井上豊治弁護士を伴つて来訪したので、拘束者が請求者と二人だけで話し合いたいと告げたところ、姉が話し合いの間被拘束者を預つておくと言つて被拘束者を連れ出そうとしたので、拘束者は、被拘束者を連れ去られることを危惧して、緊急行為として同人を抱いて逃避したのである。

5  同5は争う。もともと、請求者と拘束者の別居は、夫婦間の了解に基づいて開始されたものではなく、請求者が拘束者に無断で強行したことから始まつたことであり、拘束者は、再三迎えに行つたが、請求者がこれを拒否したのである。そして、生活費、養育費の支払は調停委員の勧告に従つてしたものであつて、親権を放棄したわけではないから、拘束者が被拘束者の監護養育にあたつたからといつて非難される筋合のものではない。

6  同6のうち、拘束者が歯科医師であることは認めるが、被拘束者を請求者のもとで養育する方がすべての面で有益であるとの点は否認する。

請求者は、被拘束者の育児をするようになつてから感情の起伏がひどくなり、育児ノイローゼになつた位で、育児能力に問題があり、被拘束者の養育には不適格である。請求者は、現在パートの勤務に出ているというのであるから、なおさら被拘束者の面倒をみてやれないし、請求者の両親は老齢で被拘束者の世話を十分してやれない状況にある。

一方、拘束者は、被拘束者を心から愛し、面倒見もよく、被拘束者もよくなついており、拘束者こそ被拘束者を養育する適格者である。拘束者は、被拘束者を手許に置いて育てようと思つて連れ帰つたが、身近に置くと請求者の側に連れ去られるおそれがあり、被拘束者を当面の父母の争いの渦中に置くことは却つて被拘束者の現在及び将来の不幸を大きくすると考えたので、被拘束者を静穏な環境に置くべく、長崎県○○郡○○町○○○九〇四番地の拘束者の妹○○子及びその夫○○夫婦のところへ連れて行き預つてもらうことにした。同夫婦には二歳の長男がおり、被拘束者の遊び友達となり、健康でのびのび育つことができる。被拘束者は、同夫婦のもとから保育園に通わせる予定であり、幼児養育の環境としては最適である。

三  拘束者の主張

本件審問期日には、被拘束者の代理人として、請求者の選任にかかる弁護士金台和夫が出頭した。しかし、右代理人の選任は不適法である。

すなわち、被拘束者は幼児であつて、その親権者は父拘束者及び母請求者の両名であり、被拘束者の代理人を選任するには、親権者両名が共同して親権を行なうことが必要であるのに、請求者は単独で親権を行使したのであるから、右代理人選任行為は不適法である。本件の場合、父母の双方が親権の正当性を主張して争つているのであるから、その一方が親権を行なうことができない明白な場合にあたらない。仮に、請求者が親権者として被拘束者の代理人を選任することが適法とされるならば、拘束者も同様の選任行為をすることを適法とされねばならず、そうなると、被拘束者にとつては、利害相反する代理人が併立する結果を生じ、被拘束者の利益が却つて阻害されるおそれがある。

第三  疎明関係<省略>

理由

一被拘束者の代理人の選任について

拘束者は、被拘束者の親権者である請求者が被拘束者の代理人を選任したのは違法であると主張するので、判断する。

本件記録によれば、請求者は、昭和五七年三月二七日付訴訟委任状により、被拘束者の親権者の資格で弁護士金台和夫(ちなみに同弁護士は、請求者代理人井上豊治弁護士と同一法律事務所に所属している。)を被拘束者の代理人に選任し、右訴訟委任状は同月三〇日浦和地方裁判所に提出受理され、第一ないし第三回の各審問期日には、右金台弁護士が被拘束者代理人として出頭したことが、明らかである。

ところで、人身保護手続においては、審問期日には被拘束者の代理人が出席しなければならず(人身保護法一四条一項、人身保護規則三〇条)、代理人は弁護士でなければならず(同規則三一条一項)、被拘束者に代理人がいないときは、裁判所が弁護士の中からこれを選任しなければならないものとされている(同法一四条二項、同規則三一条二項)。しかして、被拘束者の任意代理人の選任権者については、同法及び同規則に特段の規定が置かれてはいないが、本件においては、後記のとおり、被拘束者は、現在一歳八か月の幼児であつて、意思能力を有しないから、自ら代理人を選任することはできないので、このような場合には、被拘束者と密接な身分関係を有する者すなわち本件においては、被拘束者の母である請求者については、少くとも独立して被拘束者の代理人選任権を有するものと解するのが相当である。この点に関して、拘束者は、被拘束者が未成年者であることにかんがみ、被拘束者の代理人選任権は婚姻中の父母である請求者と拘束者とが共同して法定代理権に基づいて行使すべきであることを前提として縷々主張を展開しているが、人身保護手続における被拘束者の任意代理人の選任行為は法定代理権に基づく授権行為と解すべきものではなく、被拘束者と一定の身分関係にある者(例えば、刑訴法三〇条二項に列挙されている者)の固有の権限と解することが、人身保護法の趣旨及び目的に合致すると考えられるのである。仮に、拘束者の主張するように、被拘束者が未成年者の場合において、その法定代理人のみが被拘束者の代理人選任権を有するとすれば、例えば、監護権者である母親が親権者である父親から幼児を不法に奪われたという人身保護請求の事例においては、拘束者たる父親のみが被拘束者の代理人選任権を有することになり、母親には右の権限がないこととなつて、いかにも不合理である。そして、もし、父親が被拘束者のため選任した代理人が請求の取下をしたとすれば、母親たる請求者はいかんともこれに対処し得なくなる筋合である。けだし、被拘束者は請求者の意思に反して請求の取下をなし得るからである(同規則三四条参照)。かように考えてみれば、被拘束者のための代理人選任権は、法定代理権に基づくものと解することは、人身保護手続の法的性質に照らして相当でないというべきである。なお、拘束者は被拘束者について請求者、拘束者双方の親権者から代理人が選任された場合に利害相反する代理人が併立することを懸念するが、仮に双方から代理人が選任されたとしても、代理人は弁護士に限定されているのであるから、職業上、被拘束者のために共同して職責を全うすることが期待しうるのであるから、右の主張も当を得ないというべきである。

してみれば、被拘束者の母である請求者が被拘束者の代理人を選任した行為が違法であるとはいえないから、拘束者の前記主張は採用することができない。

二そこで進んで、本件請求の当否について判断するのに、請求者と拘束者は昭和五四年一一月一一日結婚した夫婦であり、被拘束者は昭和五五年八月八日右両名の長男として出生したこと、その後請求者は被拘束者を連れて家を出、肩書住居地記載の実家へ行き、爾来拘束者とは別居を続けていること、昭和五七年三月一四日拘束者が請求者不在のときに請求者方に行き被拘束者を連れて帰つたことは、請求者と拘束者との間に争いがなく、右別居の始期が昭和五六年八月二六日ころであることは拘束者本人尋問の結果によつて一応認められ、請求者と拘束者の婚姻関係が破綻に瀕していることは、後記認定のとおりである。

そして、<証拠>によれば、拘束者は、前記のとおり被拘束者を連れて肩書住居地記載の拘束者方に帰つた後、当初の一週間は自ら監護していたが、請求者の側に連れ戻されることを防ぐという目的もあつて、昭和五七年三月二一日拘束者の郷里である長崎県○○郡○○町に居住する実妹の○○○○子及びその夫○○夫婦の許へ被拘束者を連れて行き、当分の間被拘束者の監護養育を委託し、同日以降被拘束者は右○○夫婦によつて監護養育されてきたこと、拘束者はいずれ将来は○○夫婦のもとから被拘束者を引き取り、保母を雇つて自ら監護養育する意向であることが一応認められる。

以上の事実によれば、被拘束者は一歳八か月の幼児であるから意思能力を有しないことが明らかであり、拘束者は、昭和五七年三月一四日以降自ら直接又は妹夫婦を補助者として被拘束者を監護養育し、それによつて被拘束者の身体の自由を制限しているものと認められるから、拘束者は現在被拘束者を拘束しているものということができる。

三そこで、拘束者による被拘束者の拘束の違法性について検討する。

<証拠>を総合すると、次の事実を一応認めることができる。

1  請求者は、昭和二三年八月二〇日群馬県○○町で出生した。拘束者は、昭和一八年八月六日長崎県○○郡○○町で出生し、地元の中学校卒業後埼玉県に来て働きながら定時制高校を経て歯科大学を卒業し、昭和五三年歯科医師となり、大宮市内の○○歯科医院に勤務しているが、夜の帰宅時刻は遅く、日曜日も出勤するなど、仕事は多忙である(拘束者が歯科医師であることは、前記当事者間に争いがない。)。また、拘束者の月収は五〇万円位である。

2  拘束者と請求者の婚姻生活は、結婚当初は平穏であつたが、もともと双方の生い立ち及び性格の相違が大きいため、やがてしつくり行かなくなり、被拘束者の出生後は拘束者が請求者の被拘束者に対する育児の方法に不満を持ち、あるいは家庭生活の在り方をめぐる些細なことから双方の間で口論を繰り返すようになり、請求者が拘束者から暴力を振われることもあつて、夫婦仲は次第に冷えていつた。昭和五六年五月ころ、請求者は拘束者から暴力を振われて実家へ帰つたことがあつたが、そのときは、二〇日位して拘束者が迎えに来て請求者は拘束者のところへ戻つたが、その後も夫婦の仲は改善されなかつた。そして、請求者は、拘束者と離婚することを決意して、前記のとおり、同年八月二六日ころ被拘束者を連れて群馬県○○市の実家へ行き、拘束者と別居するようになつた。

3  請求者の実家には、既に退職して年金等(月額一七万円位)で生活している父○○○○(七一歳)と母○○○○(六五歳)がおり、両名とも高齢ではあるが健康上特に問題はなく、請求者が被拘束者を連れて来てからは、請求者を助けて被拘束者の世話を手伝つてきた。請求者は、同年一一月から近くの婚礼衣裳店でパートの勤めをするようになつたが、昼休みには帰宅することもでき、両親の助けを借りつつも被拘束者の監護養育にあたり、一応は平穏で安定した生活を続け、被拘束者も元気に成長していつた。

4  請求者は、昭和五六年一一月○日浦和家庭裁判所に離婚の調停の申立をし(同庁同年(家イ)第○○○○号)、数回調停が行なわれたが、拘束者は婚姻関係の継続を希望し、結局昭和五七年二月四日の期日に、合意が成立する見込みがないとして調停不成立となつた(調停が不成立になつたことは、前記当事者間に争いがない。)。しかし、その間調停の席上で、請求者の生活費及び被拘束者の養育費として、昭和五六年一〇月分から毎月一〇万円ずつ拘束者が請求者に支払うことの合意がなされ、拘束者は、右約定に従つて、昭和五七年二月分まで合計五〇万円を請求者に送金したが、拘束者が被拘束者を請求者のもとから連れ戻してからは、右生活費等の支払はしていない。

5  拘束者は、前記調停不成立後の昭和五七年三月七日に、請求者及びその両親を説得して請求者と被拘束者に戻つてもらうために請求者方を訪ね、被拘束者に会うことはできたが、請求者とその父○○○○からは冷たくあしらわれ、同日はそのまま帰宅した(同日拘束者が請求者方を訪ねて拘束者のもとに戻るよう説得したが、請求者が応じなかつたことは、前記当事者間に争いがない。)。しかし、拘束者は、なおもあきらめきれず、被拘束者に会いたい気持も手伝つて、翌週の同月一四日に一人で請求者方に赴いた。このときは、請求者は不在で父○○○○が応対に出たので、拘束者が子供に会わせてくれと頼んだところ、○○○○は会わすわけにはいかないと拒否したため、互いに怒鳴り合う状態となつた。その際、拘束者の声を聞きつけた被拘束者が家の中から走り出て来て拘束者に飛びつき、○○が制止して引き離してもなおも拘束者にすがりついていつた。このような状況下で、前記のとおり、拘束者は被拘束者を抱きかかえて自宅に連れて帰つた。

6  拘束者は、被拘束者を連れ帰つた後一週間は、仕事を休むなどして、被拘束者をそばに置いて、自らその世話をしていたが、一方で請求者に電話をして、同月一六日に話し合いたいから一人で拘束者方に来るようにと連絡した。ところが、請求者は、同月一六日に姉の○○○○及び弁護士井上豊治と一緒に拘束者方に来たので、拘束者は、請求者に対し一人で来なかつたことを責め、請求者と二人だけで話し合うことを要求したところ、姉○○が、話し合いの間被拘束者を預ろうと言つたことから、拘束者は被拘束者を連れ戻されることをおそれて、被拘束者を抱いて裸足のまま飛び出したため、全く話し合いはなされずに終わつた(同月一六日請求者と拘束者が拘束者方で会つたことは、前記当事者間に争いがない。)。

7  その後、拘束者は、被拘束者が請求者の側に取り戻されることをおそれて、夫婦間の紛争が続く間一時郷里の親戚のもとに被拘束者を預けることを決意し、前記のとおり、同月二一日長崎県○○郡○○町の妹夫婦のもとに被拘束者を連れて行き、当分の間の監護を委ねた。妹夫婦の家庭は、夫○○○○は自動車運転手、妻○○は農協でアルバイト勤務をしており、二人の間には二歳の長男がおり、右長男と被拘束者とは同年四月五日から昼間近くの保育園に預けられるようになつた。同地は漁村で自然環境には恵まれ、被拘束者は○○夫婦や保育園にもなじんで元気に暮していた。

8  請求者は、拘束者との離婚の決意は固く、近く離婚訴訟を提起する予定でいる。請求者は、現在勤務をやめているが、近日中に請求者方近くで宣伝、美術関係のパート勤務(時間給五五〇円)につく予定であり、また、被拘束者を保育園に入園させる手続も済ませている。

以上の事実が一応認められ<る。>

四右認定の事実によれば、請求者と拘束者は、被拘束者の両親として、いずれも監護権を有しているけれども、その婚姻関係は既に破綻に瀕しているものといわざるをえない。このような場合、夫婦の一方が他方に対し人身保護法に基づく幼児の引渡しを請求するに際しては、拘束の違法性の有無は、夫婦のいずれに監護させるのが子の幸福に適するかとの見地から子に対する拘束状態の当不当を判断して決せられるべきである。

右の見地から本件をみるのに、請求者は被拘束者の母親であり、被拘束者の一歳八か月という年齢を考慮すると、母親の側に子の監護を委ねることを不適切とする特段の事情がなければ、子の健全な成長のためには、母親の膝下に置いてその愛情の下で養育を受けさせることが望ましいといわなければならない。拘束者は、請求者が育児ノイローゼになるなど被拘束者の養育に不適格であると主張し、拘束者本人尋問の結果によれば、請求者が被拘束者を出産直後神経性胃炎に罹患したことが窺われるが、さほど重症のものとは認め難いし、仮に請求者が一時的に育児ノイローゼと呼びうる状態になつたことがあつたとしても、初めての出産、育児を体験した母親が多少精神状態の不安定をきたすことは一般にありがちなことであり、そのことのみをとらえて過大視することは相当ではない。また、<証拠>中には、請求者の育児能力の不足を指摘する部分があるけれども、これらの疎明をもつてしては、いまだ請求者が健康状態その他の点で育児能力に格別問題があるとの心証をひくには足りず、他にこれを認めるに足る疎明はない。また、請求者は、その実家において両親の援助もあり、経済的にも一応安定した生活が可能であり、そのうえ拘束者との別居後半年以上の期間平穏な状態で被拘束者を監護養育してきている。

一方、拘束者は、被拘束者に対する父親としての愛情と子を養育する熱意を有していることは肯認しうるし、相当の収入を得て経済的には安定しているけれども、一人暮しで多忙な歯科医師という職にあり、男手一つで幼い被拘束者を監護養育することは事実上相当困難であるといわざるを得ない。なお、拘束者は、将来保母を雇つて被拘束者を養育する意向を有するようであるが、幼少時における情緒の発達が人の一生を左右するほど重大であることに想を到せば、保母が実母に代替しうるとは考え難い。また、遠く離れた郷里の妹夫婦に被拘束者の監護を委託することについては、いかに自然環境に恵まれ遊び友達がいるからといつても、両親が健在でありながら、そのいずれもが監護の責任をなおざりにするような形の養育状態に幼児を長く置くことは、その心身の健全な発育に良い結果をもたらすとは到底考えられない。

以上のような請求者と拘束者のそれぞれの被拘束者に対する監護養育の適格性を比較すると、被拘束者を請求者のもとに置いてその監護養育を受けさせる方が被拘束者の幸福により適することが明らかであると断ぜざるをえず、その他前記認定の拘束者が請求者のもとから被拘束者を連れ去つた経緯をあわせ考えると、拘束者による被拘束者の拘束は、その違法性が顕著であると認めるのが相当である。

五次に、人身保護手続以外に救済の目的を達するのに適切な方法が存するか否かにつき検討するのに、本件のように、婚姻関係が破綻に瀕した夫婦の間で幼児の引渡しを求める場合には、請求者が離婚訴訟を提起し、人事訴訟法に基づく、子の監護に関する仮処分(同法一五条、一六条)による方法、家庭裁判所に子の監護についての審判を申立て、審判前の保全処分(家事審判法一五条の三、家事審判規則五二条の二)としてなされる方法等が考えられる。ことに、子の監護をめぐる紛争の処理は、科学的な調査機構を有する家庭裁判所の審判手続によつてなされることが本来望ましいし、ことに今般、家事審判法及び審判前の保全処分として、家庭裁判所は執行力を有する子の引渡しの仮処分を命ずることができる規定が設けられたのであるから、子の福祉の見地からは、右の法的手段を選択することが望ましい場合が少なくないといえよう。

しかしながら、右の各方法と人身保護手続とを比較すると、後者が迅速かつ強力な救済手続を有し(例えば、手段の迅速性が法定されており、被拘束者の身柄の確保や仮釈放の制度を備え、裁判の効力についても刑罰によつて強力に担保されているなど)、しかも婚姻中の父母間における子の引渡しをめぐる紛争の解決に長年利用されてきた実績を有するのに対して、前者は、手終的に人身保護手続による場合におけるほど強力かつ迅速な解決が手続的に保障されているわけではなく、また、実務の運用も必ずしも定着しているとはいえない面もある。したがつて、少なくとも、現段階においては、人身保護手続以外の前記のような救済方法があるからといつても、人身保護手続による救済手続を排斥すべきものとまで解するのは相当でない。のみならず、現に他の救済方法による手続に着手されているとの主張、疎明もない本件においては、その他の救済方法によつて相当の時間内に救済の目的が達せられないことが明白であるというべきである。

六以上、拘束者による被拘束者の監護は人身保護法、人身保護規則所定の拘束にあたり、かつ右拘束は違法であつて、しかもそれが顕著であるというべきであるから、本件請求は理由がある。

よつて、これを認容して被拘束者を釈放することとし、被拘束者が幼児であることにかんがみ、人身保護規則三七条を適用して、これを請求者に引渡すこととし、本件手続費用の負担につき人身保護法一七条、人身保護規則四六条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(糟谷忠男 小松一雄 池田德博)

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